桔梗とひょうたん

歴史全般、特に明智光秀と豊臣秀吉に関する内容を扱います

(5)光秀の妹・御ツマキ vol.3

「戒和上昔今禄」には御ツマキは2ヶ所に登場します。以下、早島氏論文から該当箇所を引用します。

 

最初は「御乳人」が相論解決を織田政権に働きかけた後のもので、天正5(1577)年11月23日のことです。御ツマキ・光秀以外に、筒井順慶や光秀家臣の藤田伝五が登場します。

 

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一、則御乳人へ惟任妹御ツマ木殿ヲ以テ被仰出趣者、此申事近年ノ有姿ニ被申付ヘシト内符サマ御意也、依之惟任ヘ御チノ人被仰候て、此趣以藤田伝五、筒順へ申付ラルヽ也、証文ノ写ハエテ被遣了、同我免除事モ伝五請取テ惟任へ可被仰由也、廿三日ノ事也、被仰出ハ廿二日ノ事也

 

<訳>上洛から八日後の二三日に御妻木殿を通じて伝達された信長の回答は近年の有姿のままにするようにというものであった。これをうけた御乳人は光秀に伝達し、光秀は家臣藤田伝五を使者に筒井へ申しつけ、二三日深夜に筒井は南都へ下向して、織田政権の意向を伝達したのである。

 

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2回目はその10日ばかり後の天正5(1577)年12月3日のことです。その後東大寺から証拠書類の提出などがあり、あせりを感じた興福寺側の空誓(「戒和上昔今禄」の著者)は、大和国に下る予定の光秀を、滞在中の京都から追いかけて直訴しようと企てます。

 

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此時御乳人ノ昨日ノ馬、御馬屋モノ善三郎ト被帰テ御乳人ハ在京也、子細ハ、若惟任此方ノ申分非分トテ東大寺ヘ被付ハ、両人上洛可仕、安土へ今一往御伺アリテ 右府様次第ニアルヘシ、最前爪木殿 坂本ニテハ、客人ト云 小比丘尼モテ両度被仰出モ、近年ノ筋目トナレハ、不可有相違也、惟任此方理運ニツケラレハ、御迎可上由、筈取テ下処ニ(以下略)

 

<訳>ところが光秀追跡行に積極的だった活動家の御乳人は馬屋の善五郎が帰り、馬が入手できなかったために、残念ながら京に留まらざるを得なかった。そのために御乳人と空誓は訴訟方針を入念に確認した。すなわち、もし光秀が興福寺を敗訴とした場合、再度上洛して安土の信長にもう一度判決を仰ぐが、この点については、さきほど小比丘尼を通じて御妻木殿も仰っているので、近年の筋目で裁許するという方針からすれば、大丈夫だろうと。そしてもし光秀が興福寺勝訴の断を下したならば、御乳人さまを御迎えにあがりますといって、空誓は下ったのである。

 

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「ツマキ」ではなく「爪木」となっていますが、いろんな字を充てることはこの時代よくあることなので、あまり気にしないことにします。

 

「坂本ニテハ、客人ト云」という気になる文言については、後ほど考察します。また、「小比丘尼」という女性については別の史料にも御ツマキとセットで登場しますので、その際に改めて言及します。