桔梗とひょうたん

歴史全般、特に明智光秀と豊臣秀吉に関する内容を扱います

(8)光秀の妹・御ツマキ vol.6

「戒和上昔今禄」以外では、御ツマキは「兼見卿記」「言経卿記」に計5ヶ所登場します。

[1] 兼見卿記  天正6(1578)年6月14日

祇園繪依右府御見物早天云々、祭礼者如常、於西天王御旅所参神供参勤、妻木所ヘ臺之物、肴色々・双瓶以使者持遣、猪子兵助ヘ遣角豆一折、出頭也、夕立頻。後刻晴

「戒和上昔今禄」の半年後のことで、進物の贈呈先として妻木(御ツマキ)と信長の側近・猪子兵助が並んで挙げられていますから、御ツマキも同じく側近と考えるべきでしょう。信長が祇園會を見物した時の出来事とありますので、御ツマキも猪子も信長に同行していたのでしょう。

[2]兼見卿記  天正7(1579)年1月17・18日

 (17日)為惟任日向守礼下向坂本、同道三郎左、即面会、百疋持参、在夕食之儀、丁寧也、滞留之中雨降、令起座之処、抑留之間又對本座、以饂飩・肴有一■之義、重疊之義也、入夜皈宅、山科黄門為御使来、子他出之間御皈京、廿日以後可来之由黄門云、左近允取次之

(18日)向山科黄門、唐墨一、亞相ヘ五位鷲一、亞相他行也、黄門面会、昨日仰之旨、黄門云、服忌令之義也、問答注別帋、

妻木在京也、五十疋・持参、逗留村作也、直罷向、以遁斎遣祓等也、沼田入道書状到来、先日釜之礼也、則返事

[1]から更に半年後、吉田兼見は坂本の光秀を訪問し、丁寧な接待を受けました。その日の夜に山科言経(黄門)からの使者の要請を受けたため、翌日言経を訪問し、亡くなった父・言継の服忌についてのアドバイスを行い、その後在京している御ツマキに進物を持参します。光秀への進物が百疋、御ツマキへの進物が五十疋ですので、御ツマキの重要度がよくわかります。

ところで御ツマキに続いて村作=村井作右衛門貞成(貞勝の息子)の名前が出ているのはなぜでしょう?これについては、和田裕弘氏の「織田信長の家臣団」(中公新書)の明智光秀の項に「妻木氏の姪(外姪)を養女にして村井貞勝の子貞成に娶せている(『藩士系図』)」という記述がありますので、村井貞成は御ツマキの娘婿なのではないでしょうか?ちなみにこの出典となっている「藩士系図」がどこの藩なのか、和田氏の著書には書かれていませんでしたんで、詳細はわかりませんでしたが・・。