桔梗とひょうたん

歴史全般、特に明智光秀と豊臣秀吉に関する内容を扱います

(11)光秀の妹・御ツマキ vol.9

御ツマキが登場する史料は以上ですが、もう1点、らしき人物が登場している史料として、「思文閣古書資料目録」という古書のカタログの第四揖第百二十九号に出ている十一月五日付(年は不明)佐久間信盛自筆書状があります。その内容は同書の解説によると、

「普賢寺」にて「御牧方」が申された事を話しあいたいので、「林七左」を早くよこしてほしい。また、あなたから「堀帯刀」へ書状を遣わしてほしいなどと伝えている。(中略)「御牧方」は信長の妻妾の一人か。「堀帯刀」は羽柴秀吉の家臣で石山攻めにも従軍した堀尾吉晴。「普賢寺」は大阪府門真市付近で、石山攻めでは本願寺外に最後まで残った出城があった付近。

・・とあります。

恥ずかしながら私はくずし字が読めないのですが、掲載された写真からは「御牧」「林七左」「堀帯刀」「普賢寺」の文字が読み取れます。但し、堀尾吉晴は当時茂助と呼ばれていて帯刀先生を称するのは豊臣政権になってからのことなので、ここに出てくる「堀帯刀」は別人でしょう。「織田信雄分限帳」に「堀帯刀」という人名が載っており、この人の後身なのでしょう。

この史料については、「泰巌宗安記」というブログにブログ主と桐野作人氏とのやり取りがあり、

・「御」と「ツ」のくずし字の違いはなかなか判別がつきにくいので、御牧方=ツ牧の可能性もある。
・「普賢寺」は近衛前久の所領(『信長公記天正6年6月条参照)である山城国綴喜郡田辺町の普賢寺の可能性もある。 「戒和上昔今禄」に登場する尊勢は前久の長男であり、御ツマキと関係してくるかもしれない。

・・という指摘がなされています。

 

佐久間信盛の追放が天正8(1580)年8月なので、書状の時期は天正7(1579)年11月5日でしょうか。

 

 

(10) 光秀の妹・御ツマキ vol.8

[6]兼見卿記 天正8(1580)年1月18日

明日禁裏之爆竹申付在所、各罷出了、

惟任日向守へ為礼下向坂本、路次風寒以外也、午刻着津、面会、百疋持参、妻木五十疋・御祓、下向安土、預置奏者、

[5]の4ヶ月後のことです。兼見が光秀に面会のため坂本に下った際に、妻木にも面会し御祓を実施したとあります。進物が光秀の半分というのは、ちょうど1年前の[2]の時と同じです。

 

[7]兼見卿記 天正9(1581)年5月16日

在所・家中祈念、天度祓百座神人各誦之、近衛殿・細川右京兆遣御祓、妻木依所勞在京、祓、請神龍院之間罷向、侍従・青女同前

少し間が空いて[6]より1年4ヶ月後のことです。御ツマキの死去はこの3ヶ月後のことなので、御祓いが必要な程の「所勞」が気になります。

   

(9)光秀の妹・御ツマキ vol.7

[3]兼見卿記 天正7(1579)年4月18日

妻木惟向州妹参宮、神事之義以書状尋来、月水之義也、則答、神龍院ヘ向、晩炊、月斎・元右・侍従及夕聖護院邊遊覧

[2]から更に3ヶ月後の出来事です。御ツマキが参詣するにあたって神事に関することを書状で尋ねてきた、その中で月水の儀(女性の生理のこと)につき、回答したとあります。

 

[4]言経卿記 天正7(1579)年5月2日

前右府ヘ罷向了、無對面、粽被出了、次各被帰宅了、今日衆者、菊亭・徳大寺・庭田・持明院・藤黄門・四辻・甘露寺・予・勧修寺・水無瀬・中院・日野・久我・三条・廣橋・竹内・東坊城・水無瀬羽林・冷泉・藤金吾・万里小路・六条・飛鳥井侍従・中御門・五辻左馬助等也、(中略)前右府ヘ北向・阿茶丸等被罷向了、老父御逝去、然者家領無別儀之由申之、冝様躰也、且祝着了、但面顔ニ腫物出来之間、惣別無見参了、進物帯 生衣、三スチ 進之、其外近所女房衆ツマキ比丘尼・御ヤヽ等ニ、帯 二筋 ツヽ遣了、其外カヽ 遣了、又末物共・彼侍共遣了、薄女房衆同道了、

[3]の半月後、信長(前右府)の上洛時に進物を献上した際に、「近所女房衆」であった御ツマキにも帯を献上したとあります。「戒和上昔今禄」にも登場した小比丘尼がここにも登場します。ちなみに「薄女房衆」は言経の弟・薄諸光の妻ということでしょう。

 

[5] 兼見卿記 天正7(1579)年9月25日 

北野ヘ為代官詣安田右近允、

惟任姉妻木在京之間罷向、双瓶・食籠持参、他行也、渡女房館皈、向村長、將碁、

[4]の4ヶ月後のことです。御ツマキが都にいる時に、お酒と食べ物を籠に入れ持参し、その後村井貞勝の所に向かい碁を打ったとあります。都にいる時とわざわざ書いているということは、いる時といない時があるということでしょう。いない時には、「戒和上昔今禄」にあったように坂本にいたものと思われます。また、御ツマキの後に村井貞勝が登場しますが、前回触れたように光秀と貞勝が縁戚関係にあったとすれば、よくある流れということなのでしょうか。

(8)光秀の妹・御ツマキ vol.6

「戒和上昔今禄」以外では、御ツマキは「兼見卿記」「言経卿記」に計5ヶ所登場します。

[1] 兼見卿記  天正6(1578)年6月14日

祇園繪依右府御見物早天云々、祭礼者如常、於西天王御旅所参神供参勤、妻木所ヘ臺之物、肴色々・双瓶以使者持遣、猪子兵助ヘ遣角豆一折、出頭也、夕立頻。後刻晴

「戒和上昔今禄」の半年後のことで、進物の贈呈先として妻木(御ツマキ)と信長の側近・猪子兵助が並んで挙げられていますから、御ツマキも同じく側近と考えるべきでしょう。信長が祇園會を見物した時の出来事とありますので、御ツマキも猪子も信長に同行していたのでしょう。

[2]兼見卿記  天正7(1579)年1月17・18日

 (17日)為惟任日向守礼下向坂本、同道三郎左、即面会、百疋持参、在夕食之儀、丁寧也、滞留之中雨降、令起座之処、抑留之間又對本座、以饂飩・肴有一■之義、重疊之義也、入夜皈宅、山科黄門為御使来、子他出之間御皈京、廿日以後可来之由黄門云、左近允取次之

(18日)向山科黄門、唐墨一、亞相ヘ五位鷲一、亞相他行也、黄門面会、昨日仰之旨、黄門云、服忌令之義也、問答注別帋、

妻木在京也、五十疋・持参、逗留村作也、直罷向、以遁斎遣祓等也、沼田入道書状到来、先日釜之礼也、則返事

[1]から更に半年後、吉田兼見は坂本の光秀を訪問し、丁寧な接待を受けました。その日の夜に山科言経(黄門)からの使者の要請を受けたため、翌日言経を訪問し、亡くなった父・言継の服忌についてのアドバイスを行い、その後在京している御ツマキに進物を持参します。光秀への進物が百疋、御ツマキへの進物が五十疋ですので、御ツマキの重要度がよくわかります。

ところで御ツマキに続いて村作=村井作右衛門貞成(貞勝の息子)の名前が出ているのはなぜでしょう?これについては、和田裕弘氏の「織田信長の家臣団」(中公新書)の明智光秀の項に「妻木氏の姪(外姪)を養女にして村井貞勝の子貞成に娶せている(『藩士系図』)」という記述がありますので、村井貞成は御ツマキの娘婿なのではないでしょうか?ちなみにこの出典となっている「藩士系図」がどこの藩なのか、和田氏の著書には書かれていませんでしたんで、詳細はわかりませんでしたが・・。

(7)光秀の妹・御ツマキ vol.5

「戒和上昔今禄」での御ツマキの登場シーンはわずかですが、この女性の役割がある程度わかります。

・信長の意向を取り次ぐ立場にあったこと。

・ただの伝言役ではなく、場合によっては相手に有益なアドバイスを行うなど、気の利いた性格だったこと。

・京都に滞在できる場所、おそらく屋敷を持っていたこと。

 

以上のことは、次項から見ていく別の史料でも裏付けられます。

 

(6)光秀の妹・御ツマキ vol.4

「戒和上昔今禄」にはこの後、御ツマキの関与を窺わせる記述がもう1ヶ所あります。

 

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三日ニ坂本へユクコシラヘ仕了│、若坂本ニテ相違アラハ、直ニ安土ヘユクヘシトテ、モンシヤヘ一マキ、シロトシスヘ一マキ、右府ヘノ進物ニ用意メウス、トモノ台ヒモノニアツラエル処ニ、小比丘尼トカウセウイントノヽ御局ト御袋様ヘメシテ、日中飯被下間、ソレ過テ可有御越トノ事也、サアレハ小比丘尼参申ヤウハ、上様ハ三河へ御鷹山ト申間、進物不可入由ナレハ、二マキハ返了、

<訳>坂本で色よい返事が聞かれなかったら、安土の信長のもとへいくべしとの訴訟方針が再確認されている。このように緊迫した打ち合わせのさなか、光秀の動向に関するさらに新しい情報がはいった。光秀は日中、母と会食予定があり、その後ならば面会するというのである。(中略)この情報をもたらしたのは、あの小比丘尼であり、さらに彼女が伝えるところによれば、信長は三河へ鷹狩りに行ったというので、信長への進物は不要となった。

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前項で小比丘尼が御ツマキの意向を伝える役目を果たしていたことからして、今回の情報源も御ツマキではないかと早島氏は述べています。

 

「戒和上昔今禄」には御ツマキ以外にも、光秀の先祖と足利尊氏との関係や光秀と医学との関わりなど興味深い内容が含まれていますが、それらについては後で改めて触れたいと思います。

 

 

(5)光秀の妹・御ツマキ vol.3

「戒和上昔今禄」には御ツマキは2ヶ所に登場します。以下、早島氏論文から該当箇所を引用します。

 

最初は「御乳人」が相論解決を織田政権に働きかけた後のもので、天正5(1577)年11月23日のことです。御ツマキ・光秀以外に、筒井順慶や光秀家臣の藤田伝五が登場します。

 

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一、則御乳人へ惟任妹御ツマ木殿ヲ以テ被仰出趣者、此申事近年ノ有姿ニ被申付ヘシト内符サマ御意也、依之惟任ヘ御チノ人被仰候て、此趣以藤田伝五、筒順へ申付ラルヽ也、証文ノ写ハエテ被遣了、同我免除事モ伝五請取テ惟任へ可被仰由也、廿三日ノ事也、被仰出ハ廿二日ノ事也

 

<訳>上洛から八日後の二三日に御妻木殿を通じて伝達された信長の回答は近年の有姿のままにするようにというものであった。これをうけた御乳人は光秀に伝達し、光秀は家臣藤田伝五を使者に筒井へ申しつけ、二三日深夜に筒井は南都へ下向して、織田政権の意向を伝達したのである。

 

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2回目はその10日ばかり後の天正5(1577)年12月3日のことです。その後東大寺から証拠書類の提出などがあり、あせりを感じた興福寺側の空誓(「戒和上昔今禄」の著者)は、大和国に下る予定の光秀を、滞在中の京都から追いかけて直訴しようと企てます。

 

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此時御乳人ノ昨日ノ馬、御馬屋モノ善三郎ト被帰テ御乳人ハ在京也、子細ハ、若惟任此方ノ申分非分トテ東大寺ヘ被付ハ、両人上洛可仕、安土へ今一往御伺アリテ 右府様次第ニアルヘシ、最前爪木殿 坂本ニテハ、客人ト云 小比丘尼モテ両度被仰出モ、近年ノ筋目トナレハ、不可有相違也、惟任此方理運ニツケラレハ、御迎可上由、筈取テ下処ニ(以下略)

 

<訳>ところが光秀追跡行に積極的だった活動家の御乳人は馬屋の善五郎が帰り、馬が入手できなかったために、残念ながら京に留まらざるを得なかった。そのために御乳人と空誓は訴訟方針を入念に確認した。すなわち、もし光秀が興福寺を敗訴とした場合、再度上洛して安土の信長にもう一度判決を仰ぐが、この点については、さきほど小比丘尼を通じて御妻木殿も仰っているので、近年の筋目で裁許するという方針からすれば、大丈夫だろうと。そしてもし光秀が興福寺勝訴の断を下したならば、御乳人さまを御迎えにあがりますといって、空誓は下ったのである。

 

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「ツマキ」ではなく「爪木」となっていますが、いろんな字を充てることはこの時代よくあることなので、あまり気にしないことにします。

 

「坂本ニテハ、客人ト云」という気になる文言については、後ほど考察します。また、「小比丘尼」という女性については別の史料にも御ツマキとセットで登場しますので、その際に改めて言及します。